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la souvenir

Posted on 2024.08.02

Trip down memory lane

1954年に建てられたプラザハウスは、建築家ヨルン・シャーベック氏の革新的なデザインと地元文化への深い敬意が息づいている。
ヨルン・シャーベックは1922年、デンマークのコペンハーゲンで生まれた。
彼の父親と祖父は医師だったが、彼の情熱は建築と絵を描くことに向かっていた。第二次世界大戦中、ナチスに抵抗するデンマークのレジスタンス運動に参加し、勇敢に戦った。戦後、建築家としての才能を活かして、米軍の日本再建プロジェクトに参加することになった。
1952年に東京へ渡ったヨルンは、その後すぐに沖縄にやってきた。彼が沖縄で手掛けた最初の大きなプロジェクトの一つは、アメリカン銀行の支店の設計だった。
しかし、彼の最も重要な仕事は、実業家ロジャー・C・ウィリアムズから依頼を受けて設計したプラザハウスショッピングセンターの建築だった。
プラザハウスのデザインは、アメリカのミッドセンチュリースタイルと沖縄の伝統をうまく融合させている。広い軒は、暑い夏の日差しを和らげる「アマハジ」を彷彿とさせる大きなオーバーハング、一般的なアメリカのストリップモールの直線的な配置とは異なり、プラザハウスのアーケードは緩やかなカーブを描いている。これにより、沖縄の伝統的な建築の自然な流れを取り入れた、ゆったりとしたショッピング体験が実現している。
沖縄での生活を通じて、ヨルンは地元の人々と深く関わっていった。サチコという若い女性から日本語を学び始め、彼女はやがて彼の語学の先生から人生のパートナーへと変わった。二人は1961年に結婚し、1965年には娘のヘレンを迎えた。
1970年代の初め、沖縄が日本に返還されるのに合わせて、ヨルンと家族はデンマークに戻ることにした。デンマークでは、ヘルレフ病院やサウジアラビアのスポーツセンターの設計に携わるなど、建築家としてのキャリアを続けた。その後、交通事故をきっかけに引退し、1992年に亡くなったが、彼の建築作品は今でも多くの人々に影響を与えている。
プラザハウスの成長と変遷を振り返る中で、私たちはヨルン・シャーベックの功績を改めて心から讃えたい。

               : Honoring Jørgen Schierbeck text by Kai Koki




美しい三人の家族と引き合わせてくれたのは、
ライカム・アンソロポロジーに席を置くスタッフ。
東京の大学院で同期だった友人アレックスへ、クリスマスのメッセージと共に沖縄の近況を伝えたところ、もしやそこは僕のお爺さんが設計した場所?という思いもせぬ返事を受け、まさか、まさかのやりとりが始まり、デンマークと沖縄の距離がみるみる縮まっていった。

70年の歳月を経て私たちは共にここに居る。
「琉米文化写真展/ミッドセンチュリーオキナワ/ヨルン・シャーベック展」
月苑飯店オレンジ色のタイル壁の前で撮られた白黒の写真を見上げ
愛しきお父様に時空を超えて笑顔を贈るヘレンさん。
二人の婚礼を報じた新聞の記事と披露宴写真の展示を目にしたサチコさんは
崩れるように泣き出しアレックスの肩に身を委ねた。
 私は彼と3回デートをしました。
 ここに来ました。
 プラザハウスで指輪を買ってくれたように覚えています。
 その時プロポーズされました。
 すぐに帰るはずの彼は18年の歳月を沖縄で過ごしました。
 私の主人が設計した建物が、今もここにあって私たちの家族を迎えてくれたこと…

感動的な時間が、あっという間に過去になる。
ノスタルジックなプラザハウスを再演するかのようにクラシックカーを乗り付けてくれた有志。焼けるような日差しの中、キュートな姿で笑顔を振りまいてくれたピンナップガールズ。オーディションから始まり立派にランウェイを盛り上げてくれたモデル10名、そしてなんとも豪華に、艶やかにトークショーを仕上げてくれた
宮本亞門さん、比嘉京子さん。

目に映らないジェットコースターに乗って日々感嘆の声。
70年を共にした数えきれないほどの喜怒哀楽、感謝とご縁。
歴史は素晴らしい。